《登校拒否》
こんな話があります。ある時、電話がありました。
“ご相談があるのですが・・・・”とお母さん。
“中三の娘が登校拒否で困ってます。ご相談に伺いたいのですが・・・・”
“高校なんかもう絶対行かないって言うんです。もう本当に困っています。姉の方は幸いに大学へ行っていますが、この妹には本当にてこずっております。夏休みになったら福岡の先生の所へ連れて行こうと思いますが、会ってやってもらえませんか”とこんな話です。
私は驚きましてね。何とこの方は瀬戸内のある島の方なんですよ。
“近くの大学の教育心理学の方に相談に行かれてはいかがですか”と申し上げました。
ところが、“いいえ、どうしても先生に”といわれます。辞退したいのですが、是非ということで、
“八月の何日でしたらよろしいか”
“ご都合の良い日を選んでゆきますから。”そう言われますので、
“では、八月○日に来て下さい。”
“はい、十時○分着の新幹線でいきます。”ということになりました。
“その時刻に新幹線を降りられたら動かずにホームに立っていて下さい。”
私は相手を知りませんから行き違いのなっても困りますからね。というわけで、当日朝十時すぎのそのホームへ行ったのです。
新幹線が入ってくる。お客さんがゾロゾロ出口に行ったあと、ポツンと親子二人が立っていらっしゃった。すぐ分かりました。側へ行って、
“やァ、いらっしゃい○○さんですね”と声をかけました。
“ようこそ遠いところから。まあ、どうぞ”と博多駅のコンコースの余り客のない静かな店へつれていったのです。コーヒーを頼んで、お母さんと少し雑談をしましたが、子供さんの方は、飲物も飲まず顔を上げようともしません。
“大変だったでしょう”といっても知らん顔をして物も言わずに、下を向いたままです。
“お母さん、すみませんけれど、ちょっと席を外して下さいませんか、お嬢さんと話がしてみたいので、あっちの席へちょっと行ってて下さい”
―お母さんに席を外してもらいました。
皆さんは「慈悲」という言葉をご存じですか。情深いことを慈悲深いといいますね。この慈悲に「慈」という字を広辞苑で引いてみると、“楽を与える”と書いてあります。
楽にしてあげる、相手の気分、気持ちを。これが“いつくしむ”という文字の本来の意味なんですね。
楽にしてあげること、いつくしむこと。
悲は悲しいと読みますよね。悲しいとという文字をじーっと見ていたら心にう非ずと書いてある。心に非ずとはどういうことかというと、自分の心で相手を見ないということです。
相手の気持ちになりきろうとする心です。相手の立場に立って考える、思いやりの心が悲です。辞書で引きますと“抜苦”苦しみを抜き去る、苦痛をとり去ってあげるということです。楽にしてあげて、相手の苦痛をとり去ってあげるのが慈悲の心なんです。
ですから私、その慈悲の心でお嬢さんに向き合うことにしました。
“今朝早く出て来たんでしょ”でも下向いたまま、プツン。
“六時”
“へーェ今朝六時に家出て来たの”きっと家を出て島の桟橋まで歩いて、対岸の広島まで一時間位フェリーに乗って、又桟橋から駅まで歩いて、新幹線乗り継いで今ようやく博多へ着いたはずです。
“大変だったね”
“疲れたでしょう”
“新幹線で博多へ来たのは初めてでしょう”
“どうだったあ”やさしく、ひんわかと包んで、楽にしてあげて相手の気持ちに一所懸命なりきろう、なりきろうとして慈悲の心でもって接したわけです。
そして、“どうだったの”と聞いたら、
“眠ってた”
“そりゃそうだりうね、疲れてるんだもの”
“お母さんからお電話で聞いたけど、あなた学校行きたくないんだってネ。その気持ち分かるよ”
“ボクも学校行きたくなかったし、大人になって会社へも行きたくない日もあったよ”
“ぜったいに高校行かないって頑張ってるんだってネ”
“そんなに頑張るからには、親にも先生にも友達にも誰にもいえないことがあるんでしょ”
“あなたの中に悲しい切ない、やりきれない思いがあるんでしょ”
“せっかく博多まで来たんだもの、みんな吐き出して帰りなさいよ”
“どんなことでもいい、聞くから思い切って、ネ、”熱心にかきくどいたのです。
そしたら彼女がポツリポツリと話し始めた。聞いてゆくうちになるほど、と思いました。
私も悲しくなってきました。
その女の子のお姉さんは成績が小学校から大学までずーっと一番です。ですから幼いころから、
「お姉ちゃんを見てごらん」
「あんただめじゃない、もっと頑張らなくちゃ」
「お姉ちゃんほこうしたのよ、あなただって出来るはずでしょう」こういってね、お母さんから、お姉ちゃんお姉ちゃんと、何かにつけてお姉ちゃんと比べて言われます。
これ位、自尊心の傷つくことはありませんよ、先程言ったようによそのお子さんと比べてダメダメ言われたら頭に来ますよ、誰だって。そうでしょう。親はそのつもりではなく本人のためだと思って言ってるんだけど、子供はたまったものではありませんよ、散々プライドを傷つけられてる。
“誰が勉強なんかするもんか!”です。当たり前でしょう。冒頭で言いましたように、お姉ちゃんにはお姉ちゃんの、妹さんには妹さんの良さがある。どこに良いところがあるか良さを一所懸命探して、良いところを誉めてあげて下さい。と言いました。
そこですよ、人間の価値はこんなもので決まるものじゃない。よくこのことを肝に銘じておいていただきたいのです。
―“そうなの”
“そう、大変だったね”と聞いて下さい。
“あんたバカじゃないの”こういうこと言ったらだめですよ。こんなこと言ったら今後話したくなくなりますからね。思い切って吐き出せるの目的ですから、一所懸命聞くんですよ。誠心誠意聞くんです。慈悲の心で、全身全霊で聞くんです。無条件に受け入れるのです。
“そうだったの”
“そんなにつらいことがあったの”
“くやしかっただろうね”
“つらかっただろうね”全部気持ちを分かってあげる、心を受け入れてあげる。
―これが愛です。相手の心になりきる。自分の心で相手を見るんじゃありません。愛といはこういうものなんですよね。
彼女は話していく」うちに段々くやしい気持ちがよみがえってきたんでしょう。シクシク泣き出しました。そのうち感情がこみあげて、しゃくりあげて私に訴えはじめた。その姿を向うで見ていたお母さんがびっくりしてこっちへやって来た。
“先生、この子どうかしたんでしょうか”“まあまあ、おかけ下さい”
“実は、これこれ、こういう事”と私。娘さんの気持ちを代弁してあげたんですよ。すると今度はお母さんが泣き出しました。
“あ〜ちっとも知らなかった、お母さん、あなたのためだと思って一所懸命言ったんだけど、そんなにあなたの気持ちを傷つけたなんて、全然気がつかなかった。お母さんが悪かった。ごめんなさい”
お母さんが泣いて詫びられました。わが子の手を取ろうとしたら、はじめは手を振り払ってましたよ。でも、両ひざをゆさぶって
“お母さんが悪かった、ごめんなさい、ごめんなさい”と涙しながらにあやまられると、その娘さんが
“お母さ〜ん”としがみついて泣き出し、私の目の前で母娘が抱き合って泣きながら和解しました。
私はほっとしましたね。アーよかった。福岡まで来られてよかった。もうこれで大丈夫。
そう思ったとたん、グーッとお腹がなりましてね。お二人を誘って食事に行きました。
親子は二時頃の新幹線で帰られました。
その晩、島に帰ったお母さんから電話がありました。
“先生ありがとうございました。朝六時に出てから博多に着くまでは、母娘黙々として一言も話さずに博多に行きました。帰りはずーっと話しつづけて帰りました。あの娘とこんなに話すのも初めてです”電話の向うで泣いていらっしゃいました。
よほどうれしかったんでしょう。
子供は聞いて欲しいんですよ。私は何もしていないんですよ。ただせつない思い、悲しい思い、やるせない思いを聞いただけです。
㈱オフィスエッグ
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