《涙の連絡船》

東京のある小学校の五年の教室で、先生が皆に皆の中で『恩』を知っている人とたずねた。「はい、先生、オンとはお父さんの事です。メンとはお母さんの事です。」
 おん鳥めん鳥と勘違いしているんです。こんなものです。今の教育とはこんなものです。
 どこで親の恩を説いていますか。社会の恩、祖先の恩を、どこで恩を教えているでしょうか。
 日本中の家庭でも学校でも問題にしている事はテストでしょ。進学でしょ。教育の中でどこに恩がありますか。
 これは、作曲家の神津善行さんに聞いた話ですが、昔、“家族そろって歌合戦”というテレビ番組がありました。
 その歌番組の収録が青森であった時のことです。 
 その青森で、同じ審査員の市川昭介さんに誘われて外に出ました。市川さんに、青森港の波止場に連れて行かれました。
 波止場に何があるかと申しますと、何軒かの屋台が並んでいた。その一軒ののれんをくぐったそうです。「こんばんは、おばあちゃん」「ああ珍しいね、しばらくでございました。ようこそいらっしゃいました」
 今をときめく流行作曲家の市川昭介さん、かたや青森の波止場の屋台のおばあちゃん、妙に思った神津さんが、「あなた方お知り合いなの」とだずねた。
 この先、市川さんの話です。
 市川さんは、福島県に生まれたそうですが、宮崎県の仙台に育った。
 行商の貧しい飴屋のせがれとして育った。
 しかし二十年の春にアメリカ軍の空襲でお父様、その後お母様が続けて亡くなられた。時に、市川さん十二歳の少年、下に幼い弟妹が三人おった。四人兄弟の長男でした。
 貧しい行商の飴屋のことですから、田畑財産蓄え何もなかった。たちまち、その日の生活に困った。どうしたらよいか、けなげに考えた。そして親戚のおじさんおばさんを訪ねたそうです。
 「おじさん、すみません。父ちゃんも母ちゃんも死んでしまいました。すみませんけど、弟をお願いします。「おばさん、すみませんけど妹をお願いします。」
 と一軒ずつ預けて回った。幼い弟妹に、じゅんじゅんと言って聞かせた。
 お前達さびしいだろうけど我慢しておくれ。父ちゃんも母ちゃんも死んでしもうた。兄ちゃんは、これから東京に出てうんとお金を稼いで送ってあげるから、さびしいだろうけど我慢するんだよ。
 と幼い弟妹に言い含めて、単身上京した。どこに行ったかと言いますと、あの有名なコロンビアトップさんを訪ねた。
 若い方は御存知ないと思いますが、コロンビアトップといいますと、当時有名な漫才師でございます。
 十二歳の少年が漫才なんか出来ませんので、コロンビアトップさんが、歌手の付き人の仕事を紹介してあげた。
 歌手の付き人というと聞こえはいいけど、子供ですから小間使いでございます。
 身の回りの世話をしてはお駄賃をもらって、国元へ送っていつもピーピーでした。
 歌手の付き人として青森の町へやってきた。
 昭和二十年と言いますと日本が敗戦に追い込まれた年、国民はみな飢えておりました。
 物のない頃の話、食べ盛りの少年がひもじいお腹をかかえて、日暮れ時にとぼとぼと青森の波止場を歩いておった。そうしたら、向こうに屋台が見えた。もう矢も楯もたまらなくなって、その屋台ののれんをくぐった。ポケットから有り金残らず出しまして、
 「おばさん、すみません。おそばを下さい。」と言った。さあさあおあがりと言って一杯出してもらった。
 あっという間に平らげた。
 食べ盛りの少年が、ひもじいお腹をかかえているんですから、おそばの一杯など物の数じゃない。その食べっぷりを見て、可哀そうに、この子は食べ物に飢えているんだな、と思いました。
 昔、欠食児童という言葉がございました。
 今はそんな言葉はありませんけどね、おばさんは哀れに思ったんでしょう。
 「そばは売り物だから、あげるわけにはいかないけど、私が持っている弁当、これは私のだからこれは売り物じゃない。よかったらおあがりなさい」と言って、自分の弁当を出してくれた。
 「ありがとう」と言うなり、それをむさぼるように食べた。食べ終わってさすがの少年も満腹した。
 余程うれしかったのでしょう。こましゃくれた事をたずねた。
 「おばさん、どうして一人で商売しているの、おじさんはいないの」
 「この子ったら、生意気言って。あたしだって亭主は居るのよ。昔、二十歳の頃結婚して青森の町で新世帯を持ったんだけど、亭主が北海道の炭鉱に出稼ぎに行ってね。
 行ったきり帰って来ない。そのうち手紙も来なくなって、行方知れず、そうするうちに生活に困ったので新世帯に引き払い、場末の裏長屋へ引っ越した。引っ越してから、はっと思った。亭主が帰ってきた時、自分の行き先がわからなくて、会えなくなったら大変だ。
 そこで北海道から連絡船が着くたびに、波止場へ迎えに行った。今日は帰ってくるか、明日は帰ってくるか毎日毎日、迎えに行った。
 そのうち時代がかわって連絡船がしょっちゅう行ったり来たりするようになってね。その都度、波止場へ出かけて行くのは大変だから、特別にお願いして、ここで屋台を出させてもらったのよ。
 それからはもう何十年かたった。けれどいまでも、毎日ここで船から降りてくる人をじっと見てるのよ」
 「へぇー、おばさんは、いまでもおじさんが帰ってくると思っているの」
 「そりゃそうさ、私の亭主だよ。私の所に帰ってくるよ」とおばさんは答えた。
 この身の上話を聞かされたときに、少年ながら市川さんはいたく感動したそうでございます。人間の愛情とは、何と美しいんだろうか
 何十年も帰ってこない亭主の帰りを信じて、屋台を出してこうして頑張っている。
 そのおばさんの変わりない愛情の美しさにうたれた。
 よし、おばさん、僕は大きくなって大人になったら、きっと立派な作曲家になってみせる。
 そうしておばさんを歌に作ってあげる。うんと稼いで今日のお礼をしたいから、きっと元気で長生きしてね。指切り約束をして別れた。
それ以来のつきあいなのさと市川さんが言ったそうです。
神津さんがびっくりした。
へぇーそんな昔からのつきあいだったのね。そんな経緯があったの。そうだったのか、で、その少年の日の約束はその後どうなったのと何げなく神津さんがたずねました。市川さんが答えました。
だからね、僕が大人になって一人前の作曲家と認められて世に出た時に、初めて頼まれて作った歌、それがあの“涙の連絡船”という歌なんだ。
都はるみという歌手が歌っているから、若い恋人の歌だと思われているけどそうじゃない。このおばあちゃんがモデルなんだ。
“忘れられない、私が馬鹿ね”と言っているだろう。あの歌で、少年の日の約束を果たしたんだよ。
「へぇーそうだったのか、このおばあちゃんがねぇ。あの歌にそういう経緯があろうとは全然知らなかった。で、もう一方の約束のお礼はその後どうしたの」と、また神津さんがたずねた。おばあさんが言いました。
「市川先生は、いまでもお金を送って下さいます。もうとっくに三百万円を超えております」なんだって三百万円、
「はいはい、もうとっくに三百万円を超えております。市川先生は、いまでもお金を送ってくださいます」とこう言った。
皆さん、どう思われますか。貧しかった少年の日に、恵んでもらった人の情けの弁当一個。その一個の弁当のお礼が、何と三百万円を超えている。立派な流行作曲家になった今日でも、なお貧しかった少年の日に受けた恩義を忘れないで、未だにお金を送り続けていらっしゃる。この市川昭介さんの報恩感謝の心、神津さんは一部始終を聞いて、腹の底からうなりました。 
「貴方という人は何という人なんだ。聞けば十二歳のとき両親に死に別れた。いったい誰がその心を君に植え付けたのかね。お父さんかね、お母さんかね」教育熱心な神津さんがたずねました。そうしたら市川さんがこう答えたそうです。
「うん、僕は十二歳の時親に死に別れたから、親に教わった事は何も覚えていない。けれどもね神津さん、一つだけ思い出がある。
それは、親父が行商から帰ってきた時に、僕は子供心にうれしくてたまらず、親父のあとを腰にぶらさがるようにしてついてまわった。
親父が飴をのばしてハサミで切る時、僕もそばで親父の真似をして、飴をのばしてハサミで切った。
その時に、親父が必ずこう言った。
昭介や(僕の方を見て)この飴を買った子はきっと得をするよね。
と言って少し大き目に切ってにっこり笑った。そういう親父を見て僕も親父の真似をした。
 この飴を買った子も得をするよね。そういう親父の姿を見て、いつもお袋が文句を言った。あなた達なにしているの、商売にならんじゃないの。といつも文句を言ったものだ。
 だけどね神津さんよ、どこの子が買って食べてくれるか知らないけれども、未だ見ぬよその子供達に思いをはせながら、この飴を買った子はきっと得をするよね、こう言って少し大き目に切ってはにっこり笑ったあの親父の表情、あの一言が忘れられない。あの一言でもって、僕の親父はいい奴だったと僕は胸をはって言えるんだ。
 僕はあの親父の息子なんだ。その誇りに僕は生きているんだよ。」と市川昭介さんが、こう答えられたそうです。
 皆さん方ね。日本中の親がここで一緒に考えてみていただきたいと思うんです。
 市川昭介さんの御両親って方は、貧しい行商の飴屋さん、田畑財産蓄え何も子供達に残してやれなかった。子供達の進学の事も就職の事も何一つしてやれなかった。
 今の親達の目から見たら、世間的にはつまらない親だったかも知れないけれども、死んだ後でうちの親父はいい奴だった。その思いをわが子の心にしっかり残して死んでいった。
 ここで考えてもらいたいのです。