『母性愛』

福岡の婦人学級で、母子は一体でなければならない。せめて満1歳まではべったりと母との関係を作ってほしい。できれば3歳までは側に居てやって下さい。もっと、できるなら6歳までは母が側にいてやって下さいと、口をきわめて発達心理学の立場から詳しくお母様方に申し上げた。それから半年程致しまして、ある所でカウンセリングの勉強会がありました。そうしましたら、40歳代半ばの女性が私の所に来られました。
「先生は半年程まえ、『母と子は一体でなければならない』と一生懸命強調されましたね。私は、それから大変なことを経験致しました。
私には高校1年になる娘がおります。その娘が中学に入学する春休み、胸に一つおできができました。薬を塗りましたがかぶれるばかりで治りません。
専門医の薬も(九大病院皮膚科)、治るどころか、かぶれはひどくなるばかりでした。
娘はだんだん沈んだ娘になりました。そして高校生になりました。年頃になってくるのにどうしたらよいのだろうか親子で悩みました。私が娘を生んだ時、どうだったかと考えてみました。
私は産後の肥立ちが悪くて、4年間寝たきりでした。その後も、私は仕事を持っておりましたので育児は人まかせで今日まで来てしまったのです。
アー可哀そうに、あの子は赤ちゃんの時私のふところに抱かれたかっただろうに、ふびんさで胸が一杯になりました。その夜母子初めて一緒に風呂に入った私は、かぶれの余りのむごさに風呂の中で娘を抱きしめて母子で泣きました。風呂から上がると、私の手でくまなく薬を塗ってやりました。
その夜、休むとき私の寝床に呼びよせました。高校1年の娘は床にくるなり「お母さん」と胸にすがりついてくるじゃありませんか。私はしっかり抱いて寝てやりました。それからそういう生活が続きました。
ところが、驚くじゃありませんか。あのがんこな皮膚病がその日を境に日に日にかるくなり、3ヶ月できれいに治ってしまいました。」
母親でなければできない事を、母親だからこそできる事をなされた。
高校1年になって、生まれてはじめて母子一体の関係が確立したのです。このお母さんは、自分自身で気づいていらっしゃらないが、すばらしいことをなさった。
これを専門用語で「幼児がえり」と言います。人生のスタートにもどって母子一体の母子関係をやり直す、これを「幼児がえり」と言います。
赤ちゃんの時の欲求不満は、本人は覚えておりませんけれども、これ程根深いものですよ。親も気がつきません。
私が調べたところ、小学校に入った時、中学校に入った時、高校に入った時など、何か生活環境が変わった時に出てきやすい。
今まで何もないよい子だったのに、ある日を境に色々な形になって手の平をかえしたように一家中引っかきまわす心配の種になって、あんなよい子だったのにと親はただおろおろするばかりです。
赤ちゃんの時の手ぬきなど全然気づいていらっしゃらない。
まず、人生のスタートからわが子をゆがめないでいただきたい。
戦前の日本は、小児科学会で世界中の小児科の医者がうらやむ程、母性愛の豊かな国と定評がありました。戦後物が豊になるにつれ、便利になるにつれて、手間をはぶこうはぶこうとして駄目になってまいりました。アメリカ式育児法、厚生省も産婦人科医もそう指導致しましたから無理もありませんが、これほど子供の心を傷つけていることはない。
このことをぜひわかっていただきたい。このお母さんの手当てが本当の手当てです。無意識のうちに痛い所に手を当てていますね。それが手当てです。子供は不安のかたまりです。母親が体をやさしく手でなでてさすって刺戟を与えて内臓が丈夫な子になるのです。ただ寝かせているだけの子は、刺戟を与えませんから刺戟に対する反応の鈍い子になります。
人間のことを、人の間と書きます。人の子として生まれ、人の手で人として人の間で育てられなければ人になれない。だから人の間と書きます。昔の子供は大家族でしたから、人の間で育ちました。今のこどもは人の間で育っていません。せめて母親が相手をしてやらなければ、誰が相手をしてやるのでしょう。それで、どうしてまともな人間の心が育つのかここをよく考えてもらいたいのです。
人間の本来あるべき姿をとりもどしていただきたい。あまりにも経済が豊になりすぎ、便利になりすぎとてもすれば自分を見失いがちでございます。人間の原点の姿をもう一度よく考え直してみていただきたい。なぜ充分に手当てをして、なでさすって語りかけて抱っこしてゆすって育ててやらないのでしょう。母親の手は、子供にとって万能の神様です。お母さんの手はすごいな、何でもできる(料理・裁縫・掃除など)。手には目があり心がある。
手の心の事を日本語で掌(たなごころ)と申します。

《掌(たなごころ)》
二千年来、受け継がれてきた日本民族の素晴らしい子育ての文化が、戦後の経済優先で忘れられてしまっている。そのしわよせが全部子供達にいっているのです。だから問題の子供があるのではない。問題の親があるのだと私は申し上げているのです。
私共(親自身)が人間としての原点にたって、お互いの生き様を反省することなしに、子供の問題は絶対解決しないと私は確信しております。
手には心があると言いましたけれども、ある小学校の遠足の話です。
先生が、お母さんの手作りの弁当を持たせてやって下さいと通知を出しました。ある母子家庭の小学校5年生の男の子ですが、母子家庭で家が貧しいので、お母さんはおにぎりしか作ってやれませんでした。さてお昼になって弁当の時間になりました。他の子の弁当を見ますと、きれいな弁当を持ってきていました。その男の子は隅っこで皆に背を向けてお弁当を開きました。すると中から1枚の便箋、お母さんの手紙が出てきました。
「お母さんが貧しくてごめんなさい。もっと立派な弁当を持たせてあげたいけれど、お母さんが貧乏なので持たせてあげられない。本当にごめんなさい。けれど、このおにぎりはお母さんが一生懸命にぎったのです。今日はお母さんも工場の食堂で、同じおにぎり弁当を食べます。お母さんと一緒に食べようね。ごめんなさい」
この子は、この手紙を読むとボロボロと涙をこぼしました。
お母さんありがとう。
それから皆の所に行って「これ、お母さんの手作りのおにぎりだよ」と胸をはって告げ、いばって食べたと申します。
子供が親に求めるのは愛情です。物やお金ではございません。昔はすべて手作りでした。物やお金は豊かではございませんでしたけれど、母の愛情に恵まれていましたから、今よりなんぼか幸福だったと思います。
こういう事を考えた時に、人間の生き様というものはどうあるべきものかということ、子供は手塩にかけて育ててこそ親の期待にそう子供に育っていくんではないでしょうか。
女優の八千草薫さんが、テレビのインタビューに答えて言っていたんです。美人の女優さんに珍しく家事労働が大好き、炊事、洗濯、掃除が大好きと言っているんです。
洗濯は手で泡立ててゴシゴシ洗うんです。それを聞いたインタビュアの人はびっくりしました。
「お宅には、洗濯機が置いてないんですか」「洗濯機ぐらいありますわよ。だけど洗濯機で洗濯しても感動がないじゃあ、ありませんか。自分の手でゴシゴシもんで、泡立てて水できれいにすすいで干せば、あーきれいになったという満足感と充実感があります。
一つの事を仕上げたという喜びがあるでしょう。洗濯機にその喜びがありますか。近頃は余りにも便利になりすぎて、ともすれば自分を見失ってしまいそうになります。私は自分を見失いたくないんです。だから努めて不便な事をわざとしているんです」と八千草薫さんは言っているんです。
私はこれを見たとき、ただきれいな人というだけでなく、きわめて聡明な人だ、かしこい人だと見方が変わりました。
余りにも便利になりすぎて、人間本来の姿を見失いがちだということを、ぜひお互いに気づいて、英知を働かして、人間本来の心を失わないようにしていただきたい。